„踊り– 遊びと偲び”
ショパンの全作品のうち半数近い100曲が踊りの曲です。その重要性に注目すると冗談好きで明るいフリデリクと故国への張り裂けるような思いを抱えるショパンの二面性がこれら舞踊曲集に浮かんできます。
フリデリク・ショパン
アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22 ポロネーズ ト短調 3つのエコセーズ 1. ニ長調 2. ト長調 3. 変ニ長調 4つのマズルカ作品7 1. 変ロ長調 2. イ短調 3. ヘ短調 4. 変イ長調 華麗なる円舞曲 作品34-1 タランテラ 変イ長調 作品43 3つのマズルカ 作品63 1. ロ長調 2. ヘ短調 3. 嬰ハ短調 2つのワルツ 作品64より 1. 子犬のワルツ 変ニ長調 2. 嬰ハ短調 英雄ポロネーズ 変イ長調 作品53
踊り- 遊びと偲び
ショパンは遊び上手で冗談好きで、物真似がうまく風刺画を書いたりして友達を楽しませることが大好きだったようです。少年時代はもちろんのこと、大人になってからも社交界での人気者でした。 夏休みに訪れた田舎で愉しみの民俗舞踊を見聞きして以来、マズール、クヤビヤク、オベレクというポーランド民俗舞踊のリズムやメロディーをインスピレーションにした曲をマズルカと名づけ生涯にわたって多数作曲しました。後にウィーンやパリではワルツを作曲し始め、その多くは出版目的ではなく友人や知人に送られました。他にも当時流行していた踊りを即興演奏したりしていましたが、その中で彼の意思で出版されたのはスペインのボレロとイタリアのタランテラ、それ以外にはスコットランドのエコセーズが遺作として出版されています。 ポーランドの国民舞踊であるポロネーズは厳かな式典の入場の際、豊富なバリエーションで会場全体を男女が列を交差させたりパートナーを交代したりしながら気品と優雅たっぷりに廻る3拍子の行進舞曲です。はじめて出版されたショパンの作品は7歳のフリデリクが作曲し父が記譜したポロネーズト短調です。そしてその後も少年期、青年期、成熟期と生涯わたって書かれたポロネーズが現在16曲残っています。 ショパンが生存中のポーランドは周辺列強三国によって分割され政治的にはポーランドという国家は存在しなかったので、言語や文化、歴史などを大切に伝承することによってポーランドの存在を維持し続けていました。その中でポロネーズは愛国心の象徴の役割を深めていきました。 20歳で希望を胸に地図上は存在しない祖国を離れたショパンは、各地での勇敢な同邦人の蜂起の様子を耳にしながら自ら参戦することはできなかったので、家族や友人知人の安否を気遣いポーランド独立成功を祈りながらその気持ちをポロネーズに託しました。マズルカも少年時代の田舎での生活の思い出、ポーランドの風景を重ねながら帰りたくても帰れない故郷への思いを死ぬ間際まで書き続けました。 ショパン全曲のうち半数近い100曲以上が踊りの曲ですが、冗談好きで遊び上手のフリデリクと故郷を張り裂けるような心で偲ぶショパンという二面性を表現する一番身近な方法だったような気がします。
* * * * * ショパンのユーモラスぶりは彼の手紙や友達の言及によってうかがうことができます。例えば、ショパンの幼友達は
“小さなフリツェック(訳注:フレデリクの愛称)は当時すでにワルシャワ最高のピアニストとして名を挙げていましたが、そんなことより私たちの目には彼ほど遊びといたずらに長けている男の子はいないということのほうがずっと魅力的に映りました。”
(ユーゼファ・ヴォジンスカ)
と語っていますし、8歳ののデビューコンサートからパリのポーランド人亡命芸術家のサロンまで生涯にわたってショパンを見守った年配の詩人も
“ヨーロッパのピアニストの中でも第一人者であるショパンは、明るくユーモラスであらゆる人の物真似をおもしろおかしくして見せ、私たちを粋に楽しませてくれた。”
(ユリアン・ウルシン・ニエムツェーヴィチュ)
と叙述しています。 14歳の病弱なフリデリックが療養をかねて滞在した田舎シャファルニアからは両親宛に、当時有名だった“ワルシャワ速報(Kurier Warszawski)”をもじって“シャファール速報(Kurier Szafarski)”と名づけた 新聞形式にした手紙を数通送りました。
“シャファール速報 金曜日 回想録 1824年8月27日(...) 25日 鳥小屋からこっそり逃げ出したアヒルが溺死。家族は何もしゃべりたがらないため、未だに何が原因で自殺に至ったかは不明。(...) ピション氏(訳注:ショパンChopinをもじってPichon)はシャファルニアでのいとこたちの数々の振る舞いに対し大いなる遺憾の意を表している。事あるごとに噛み付くが、幸い鼻ではないのでこれ以上大きくなることは免れている。(...) 海外ニュース 今月26日ソコウフで七面鳥が庭に密かに侵入。雛のときから庭で飼育された鳶は生まれてこの方七面鳥を見たことがなかったので横目で見つつ近づいて行き目を引っ掻こうとした。七面鳥は羽を膨らませたが、威嚇するだけでは効果なさそうなのでくちばしに食ってかかった。闘争が始まった。どちらが優勢をとるでない長期戦の末、鳶の右目を突っついた七面鳥の勝利で悲しく格闘は終結した。 今月26日ピション氏はゴルプに滞在。外国のきれいどころの中でもとりわけこの高貴なさまよい人の目を引いたのは異国情緒あふれる豚だった。”
幼い頃から貴族や知識階級の上流社会で育ったショパンはパリの社交界にデビューしてからもごく自然にその世界に馴染み、天才作曲家、ピアニストとしてだけでなく、彼の立居振舞いは注目の的となりました。病弱の息子が夜な夜なサロンに出入りすることを心配し、ショパンの父ニコラスはたびたび注意を促す手紙を送っています。
“お前の手紙から察するに、どうも忙しい様子だな。お前の年代では多忙なことは結構だ。何もしないでいる事の方がかえって差し障ることもあるが、仕事が負担になるようではいけない。お前は自分の健康についてもっと気をつけるべきだ。お前の作業は機械的なものではない。社交界で娯楽を探すのを悪いとは言わんが、休息を誰よりも必要としているお前に夜更かしが続くことはやはり心配の種だ。”
(1833年12月7日ニコラス・ショパン)
ワルシャワ音楽院作曲科の同級生でショパンより一足先にパリに留学していた友達はショパンの様子を家族にこんな風にしたためています。
“ショパンはフランス女性全ての気を引き、男性陣を嫉妬させる。彼は今人気者だ...ただ望郷の念が彼の気を沈ませることがたびたびある...”
(アントーニ・オルウォフスキー)
外国の社交界にデビューしたショパンはベルリン、ウィーン、パリ、ロンドン、どこに行っても引っ張りだこでしたが、心の内は複雑だったようです。 ベルリンで外国はじめての社交界入りしたショパンは
“...一流社会の仲間入りをした、大使や皇太子や大臣の間に座っている。どんな奇跡が起こってここにいるのかわからない、だって僕一人じゃとってもよじ登れなかっただろうから。今日の僕にとってこれは一番必要なことなんだ、だってあそこからよい嗜好が出現するらしいからさ。もし英国大使館やオーストリア大使館で聴かれたらすぐに才能が大きくなるし、もしヴォーデモン王妃のお気に召すとたちまち上手になるんだ。...”
とそのからくりを揶揄しながらも芸術家にとっての必要性を自覚した本心を綴っています。
ウィーンで11月蜂起の知らせを受けたあとには
“ご馳走や夜のひと時やコンサート、ダンス、全てうんざりするほどある、つまらない。ここでの僕は憂鬱で空虚で暗澹としている。みんな好きだけど、こんな残酷な形じゃなければの話だ。サロンでは平静を装って、帰って来るなり怒り狂ったようにピアノを弾きまくる。誰も信じない、みな当たり障りなく礼儀正しく付き合わなければならない。”
と。
ショパンにピアノを師事し彼を崇拝していたスコットランド人姉妹の招待で晩年イギリスを訪問したショパンは病状を悪化させながらも好意あふれるもてなしを断れないジレンマを友人に打ち明けています。
“朝はずっと時には2時まで何もする気がしない。-そして着替えをした後には何をしてもうまくいかず、ディナーまではため息ばかりついている。-ディナーのあとは2時間ほど席に着いたまま男性陣の話す様子を聞いたりお酒を飲む様子を眺めたりしていなければならない。死ぬほど退屈な(その席では彼らがとても鄭重にフランス語で会話してくれているにもかかわらず別のことを考えている)ぼくは、居間に行き魂の全力を振り絞って少し自分を活気づける!-大概そのときには僕の話を聞きたがるから-その後面倒見のいい僕のダニエルが階段を担いで昇って寝室まで(ご存知の通りたいがい2階にあるからね)連れて行ってくれ、着替えさせてくれて寝かせてくれてろうそくを置いていってくれ、ようやくため息をついてもよくなり、またこれと同じことが繰り返し始まらない朝まで夢見ることができる。...好意で僕の首を絞めているんだけれども僕は折り目正しく断らないんだ。”
人を喜ばせたり笑わせたりするのが好きで人気者だったショパンですが、その一方気を遣い淋しさやつらさを表面に出さない部分があったことが伺えます。こんな彼の心情を嬉しいときも悲しいときも生涯わたって踊りの曲にほとばしらせていたように思われます。
ショパンの手紙 ポーランド国立ショパン協会所蔵 http://pl.chopin.nifc.pl/chopin/letters/search
日本語翻訳:西水佳代
感謝の気持ちをこめて
このCDとウェブサイトは友人知人の温かい心と励ましのおかげで出来上がりました。
この場を借りてお礼申し上げます。
-あらゆる面で支援してくれた佐藤栄一氏に。
「アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を感謝の気持ちをこめて捧げます。
-私の書いたポーランド語の文章を推敲してくれたアニータに。
-CDジャケット、ウエブサイトのテキストの英訳をしてくれたクバに。
-日本語テキストの校閲をしてくれた宮原慎一氏に。
-素敵な写真を撮ってくれたマチェクに。
-録音中穏やかに対応してくれたウーカシュに。
-すばらしい音の鳴るピアノに調律してくれたマルチンに。
-スタジオでいろいろ心遣いしてくれたカロリナに。
-オリジナルなカバーデザインをしてくれたピョトルに。
-いつも応援して待ってくれている日本の友達に。
-私を理解し支えてくれる夫と子供たちに。
...そしてここでは名前を挙げられなかったけど本当にお世話になったみなさまに...
ありがとうございました。
2013年9月
西水佳代 |